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総合学習「戦争体験者の話を聞く」

戦争体験者の話を聞いて

 

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先週に引き続き、2年生は総合学習を利用して平和について学ぶ時間を持っています。今回は、戦争体験者である表コミの長谷田先生のお話をお聞きしました。

 

『大阪城のある私たちの街は、本当によく考えられて造られています。江戸時代から川を利用して物が運ばれ、大阪は商人の街として栄えました。また、坂道があまりありません。そのことによって交通がとても便利ですね。大阪の道路はとても幅が広いですが、これは、昔、市電が走っていた名残なんです。市電はものすごく便利でした。私の幼少時代は、水道もガスも電気もありました。今と比べて無かったのは、コンビニや車ぐらいです。車がなかったので、空気がキレイでした。今よりずっと寒かったように思います。

小学1年生の頃から、配給制度が始まりました。食糧が不足し、家庭の人数に関係なく、一律の食糧が配られました。この頃は、ラジオでは「日本は勝った」と言われていました。小学校3年生の時に学童疎開があり、大阪市内から豊中の親戚の家に疎開しました。とても豊かな中から真下へ落とされたような気持ちでした。この年の運動会は手旗信号を生徒で行うことが種目でした。市内に住んでいた私は、全く初めてだったので、先生に大変叱られました。この頃はよく歩きました。片道2時間歩き、市内の家族に会いに行っていました。そして、週末が終わると早朝に出発し、歩いて豊中まで戻っていました。この頃はいくら歩くのも平気でした。大人は兵隊に行ったり、軍需工場に行ったりしていたので、農業は子どもの仕事でした。学校に行っても授業がなく、それぞれのクラス単位で農家の家に行き、一日中仕事を手伝っていました。どんなに寒くても手袋をすることはできませんでした。それは、兵隊さんは寒い中でも手袋をしていないからと言われました。田植え、草履作り、大豆を植える、お風呂を入れる、子どもの仕事が本当にたくさんありました。中でも一番嫌だったのは、宿題としてイナゴを取ることでした。これは、兵隊さんの食糧になると言われていました。町で育った私はどうしてもイナゴを触ることができませんでした。それでも、友だちが助けてくれて、なんとか提出していました。

小学4年生の3月から6月までの間に3回の空襲がありました。これが、大阪大空襲です。日本の家が木造で出来ていることを調べていたアメリカ軍は、木造の建物を燃やす為の爆弾を作り、大阪に落としました。豊中から市内を見ると、花火のように火の玉が降ってきていました。そこには自分の家もありましたが、ただただ見ていることしか出来ませんでした。2回目の空襲は昼でした。今でもはっきり覚えています。産後すぐの先生の家にヤギのミルクを届けに行った帰りでした。「伏せろー」という声がどこかからして、伏せるとアメリカ軍の飛行機がスーと100m先を飛んで行きました。操縦席に座る兵隊の顔とヘルメットを見ました。その光景は頭から離れません。そして、小学5年生の8月に終戦となり、9月にはアメリカ兵がやって来ました。

私の戦争体験は本当に複雑な思いの中にあります。みなさんには、よく歩いて欲しいと思います。今の高齢者が元気なのは、昔よく歩いたからだと思います。身体が元気なことはとても大切なことです。だから、しっかり歩いて、健康でいて欲しいと思います。』

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戦前の大阪がどれだけ豊かで平和だったのか。そして、そこから戦争の時代に向かって行った時代の苦しみ。平和を考える時、答えはありません。だからそこ、先生は健康でいるために歩くことを最後のメッセージに伝えて下さったのだと思います。健康な体と心で考え続けて欲しいという思いだったのでしょう。一人ひとりが自分のこととして、考え行動していくことが必要だと感じました。