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11月の全体礼拝
今回与えられた聖書の箇所は、伝道の書第3章1節~11節でした。
1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
3 殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
4 泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
6 捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
7 裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
8 愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
9 働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
10 わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
今回はこの聖書の箇所にちなんで、岡村牧師より「すべての事には時がある」という題で、お話をいただきました。
時が過ぎることを、わたしたちはどうすることもできません。「時」というと、日本人はどちらかと言えば自分の前から未来がやって来るような感覚をもっています。しかし、聖書の民ユダヤ人は逆です。ちょうど手漕ぎボートのように、後ろに下がるような感覚をもっています。ということは、自分が通ってきたあとがよく見えます。そして、これから起こることはわかりません。自分の目に入ったときに、初めてわかります。聖書の民ユダヤ人は、時間が神から与えられたものなので、その時になってみないとわからないと考えています。
これは、普通に考えれば不安なことです。目の前を見て、「これから来る未来は、神様が用意して下さっている」と信じる。「私の過去をずっと用意して下さった神様が、現在を与えて下さる」と、過去を見て未来を信じるのがユダヤの民です。そういう考えをもっているからこそ、ユダヤの民は、過去を見て判断し、現在できる精一杯のことをします。今の自分にできることをきっちり行い、未来を信じて進みます。
今日読んだとても長い聖書の箇所は、非常に有名な言葉です。海外に行くと、この言葉を引用していたり、墓石に刻まれているのを目にするかも知れません。この箇所には、ポジティブなこととネガティブなことが出てきます。その中で、今のわたしたちには少しわかりにくいのが、「石を投げる」、「石を集める」の部分ではないかと思います。「石を投げる」 というのは、相手を攻撃すること、つまり、戦争を表しています。反対に「石を集める」とは何を表しているかというと、石垣を作るための石を集める、つまり、戦後の復興を表しています。
11節に「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」という言葉がありますね。しかし、現実に絶望することはたくさんあると思います。ですが、たくさんの過去と今の絶望が並ぶと、その過去が、その後の成長につながるとわかります。例えば、自分はどうしても好きになれない、嫌いな人に出会ったことも、その後優しい自分になるために必要なことだったのだと、後から気づきます。人生に無駄なことは何一つなく、背後には神様の計画があるのです。
本当に過去をきちんと見つめれば、安心して未来に進むことができます。神様はわたしたちの髪の毛の奥、そして宇宙の果てのことまで知っています。その神様が計画した今を、大切にしようではありませんか。過去をきちんととらえ、今できる最大の努力を行っていれば、将来を信じて進むことができます。これは、二千年余り、多くの人が、その通りだと信じてきたことです。
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