不登校という経験
(3)不登校の意義

まわりの大人たちがまず不登校のその意義を考えることが大事になってきます。

「いじめがハッキリしている場合は学校に行かなくてもいいけれども、いじめの事実が無いのなら学校に行きなさい」というのは、これはけちな考え方ですね。まず「いじめがあろうが無かろうが、学校を拒否する権利があるんだ」と考えて、あるいはそう伝えておけば、最悪の事態だけは防げます。

不登校 の期間というのはその子どもにとって、もちろん苦しいことも多いでしょうけれども、その人の人生から考えると、やはりかけがえの無い時間であり、かけがえの無い体験をしているんだと、私は思っています。大人たちがそういう時間を十分に保証できるのかどうなのかによって、せっかくのこの不登校の時間の意義が変わってきます。

不登校の積極的な意義を理解してその時間を保証することができたら、不登校をしている子どもにとってとても有意義な時間になり、人生の役立つ時間になると思います。逆に不登校は悪いことだと決めつけてしまうと、子どもも不登校が悪いことだと思ってしまいます。まわりの大人たちがまず不登校のその意義を考えることが大事になってきます。

不登校に学校に不適応という言葉を使われることがありますが、子どもが学校に適応できないということではないのです。学校が社会に適応できないから、社会の中に生きている子どもにも適応できない。これが不適応という意味なんです。学校がもう社会に適応できなくなってきているものだから、子どもたちを吸収できないどころか、どんどん不登校という形で学校から手放すことになっているわけです。これが不登校の本質です。時々遅刻しているとか、しょっちゅう休んでるとか、かためて不登校しているというお子さんをお持ちでしたらとりあえず安心していいと思います。やっぱりそれが健康な姿といいますか、社会に適応できない学校にうまく適応できないということは、とりあえず一安心と考えていただくべきだろうと考えます。一安心した後は、その姿勢を崩さずに大人たちが維持していくかが問われてくるわけです。

さらに、勉強のことで言えば学校に行っても勉強のできない人はたくさんいますし、学校に行かなくて勉強のできる人もたくさんいます。ですから学校に行く行かないと勉強のできるできないはあまり関係しないでしょうし、義務教育だという人もいますけれども、それは親の勝手な理由です。学校になじめない子どもを無理に行かせるというのは義務教育ということとは関係ないわけです。

友達ができないんじゃないかという、これは曲者ですね。やっぱり友達がいてその結果いじめ集団から抜けられないというケースがたくさんあるわけです。でもそんなことはない。友達というのはいつでもある集団から離れたり入ったりという自由が確保されている上でしたら分かりますけれども、自由がない時の友達というのは必ず煮詰まってきてダメになってくるんです。皆さん方もそうじゃないですか?町内会やなんかもそうですし、NPOなどをなさってる方も、上り坂のときはいいのですけども停滞してきますとやっぱりどっか出入りが自由じゃないと息苦しさというのは必ず出てきますから。友達ということを強調するのもかなり曲者だと思います。そのように考えますと、不登校によるデメリットというのは考えられないと思っています。

講師 高岡健氏

(岐阜大学医学部助教授・精神科医)

「大阪YMCAでの講演会より一部抜粋」